「カメラを止めるな!」騒動から“原作”と“原案”の違いを知って感じた実写化ブームへの思い
*この記事は8/22にメモ帳に書いていたものです
上田監督の話題作「カメラを止めるな!」の原作は舞台「GHOST IN THE BOX」であると舞台の製作者・和田亮一さんが主張している旨を今朝がたニュース(とくダネ)で見た。
ちょうどわたしがその映画を見てみたいなぁと思っていた矢先のことだった。
上田監督は舞台を映画化する意向を事前に劇団関係者に伝えていて、和田さんも当初はツイッターやフェイスブックで映画のことを応援する意思を発信していたが、
映画を見たところクレジットに舞台のことや和田さんならびに劇団関係者の名前が書かれていなかったことが気になったという。
その後、クレジットに「原案」として和田さんたちの名前が記載されるようになったが、和田さんとしてはそれでは自分の作品が軽く扱われているように感じる、「原作」として記載してほしいと主張。
対する上田監督は、和田さんの舞台からアイディアは貰ったものの、あくまでも自分のオリジナル作品であるとの考えを示し、和田さんとの和解を望んでいるそうだ。
どっちの気持ちも分かるなあと思った。
たとえば上田監督がフレンチ料理のシェフで、和田さんが日本料理の板長だとする。
上田シェフは和田板長の料理に感銘を受けて、それをもとにフレンチ・ジャパニーズ的な料理をつくって自分のレストランで出した。
上田シェフとしては確かにアイディアはもらったし、食材とか調味料とか一部かぶってるけどレシピを考案したのは自分なんだから自分の料理だと言う。
和田板長は、いやでも俺の料理がなかったら君はそのレシピを思いつけなかったわけじゃん? なのに自分がイチから考えました全部自分の手柄ですっていう態度なのはおかしいよねと言う。
わたしは自分が上田監督の立場だったら上田監督と同じ主張をするかもしれないし、和田さんの立場だったら和田さんと同じ主張をするかもしれないと考えた。
特に和田さんの「もともとは自分が生み出した作品なのに、自分の作品は世に埋もれ無かったことにされてしまうのか」という悲しみ、悔しさは、上田監督の映画が記録的な成功をおさめればおさめるほどに強く深くなっていくだろう。
争点である上田監督の行為が著作権侵害にあたるかどうかという点だが、
ニュースを見た限りではわたしは「侵害とまで認定するには弱いかもしれない」と感じた。
ニュースでは映画と舞台の類似点として
・物語の出だしが一致する(ゾンビに女性が襲われてあわや…というところで「カット!」の声がかかり、映画の撮影だったことがわかる)
・物語の舞台が廃屋である
・旧日本軍が人体実験をしていた設定である
といった点が挙げられていたが、
正直どれも目新しい設定ではない。よくある王道のシチュエーションだと思う。
ひとつひとつの要素が王道であってもその組み合わせに創作性があるのだということと、
物語の中核あらわす「カメラを止めるな!」という決め台詞が一致するということを考慮すれば、
もしも訴訟を起こした場合に和田さんが勝訴する可能性はゼロではないのかも知れない。
だが、著作権侵害と認定することは、その作品の出版を差し止めできるくらい、作品自体を存在しなかったことにできるくらい強い権利であると、少し前にニュース記事で読んだ。
(北条裕子さんの「美しい顔」に引用文献の記載がなかったことが問題になったときである)
裁判でくだされた判決は判例として、以降 類似した訴訟が起こったときの参考、判決の論拠にされる。
ここで上田監督の著作権侵害を認めると、ほかにも著作権侵害が成り立つ創作物はおそらくごまんとある。
また人間があらゆる創作物の影響をまったく受けずに創作活動をすることが不可能な以上、創作活動じたいの未来を萎縮させる可能性もあることを考えると、和田さんの気持ちに寄り添いたいわたし個人の気持ちは別にして、
和田さんの「原作」扱いにしてほしいという要望が叶えられることは難しいのではないかと思った。
ここまでは素人考えの与太話である。
で、本題だが、わたしがこのニュースでもっとも関心を抱いたのは「原案」と「原作」の法律上での相違点についてだ。
「原案」はあくまでもアイディアをもらったことへの謝意をあらわすもので、
原案者に許諾をもらったり、ギャラを支払ったりする必要がないのに対し、
「原作」は原作者に著作権があり、関連したものを出版したり配給する際は許諾を得ること、金銭を支払うことが必要であるという。
つまり「原作」がある作品は「原案」のある作品よりもずっと元ネタに忠実であるということになる。
へえ〜全然しらなかった! 勉強になったわ〜!
え?
でもちょっと待って。
「原作」に忠実…とは…?
「原作」を見る影もなく改変した映像化、あまりにも多すぎない?
例えばまっさきに思い浮かぶのが黒執事の実写映画である。
ウィキペディアによるとこの映画は
>原作者・枢やな承認のもと、原作から約130年が経過した2020年のアジア某国で繰り広げられる映画完全オリジナルストーリーとなっている。
らしい。執事のセバスチャン以外の登場人物はみんな原作のキャラをモデルにしながら、名前も容姿も異なる人物である。
また、原作と原案の違いを調べていたところこのような記事も見つけた。
テレビ局も抱える著作権トラブル、"原作"と"原案"の違いは? http://lite-ra.com/2013/08/post-116.html @litera_webさんから
以下に原作から大きな改変があった作品を挙げている部分を引用する。
>よく知られているのは、月9ドラマ『ガリレオ』(フジテレビ系/07年~)シリーズのケースだ。柴咲コウや吉高由里子が演じた女性刑事は、原作である東野圭吾の小説には登場しないし、大ヒットを記録した映画『テルマエ・ロマエ』でも、物語の重要人物である上戸彩演じる女性マンガ家は、原作ではまったく描かれていない。また、木皿泉脚本の『野ブタ。をプロデュース』(日本テレビ系/05年)も同様で、亀梨和也・堀北真希と共に主演とした山下智久の役は、白岩玄の原作では存在しない。現在、高視聴率を獲得しているあの『半沢直樹』(TBS系)だって、ストーリーは原作に忠実ではあるが、原作では堺雅人演じる主人公の父親は自殺しておらず、妻も広告代理店で働くやり手で、ドラマの上戸彩のように社宅妻たちとの付き合いに頭を悩ませる専業主婦ではない。
こんなふうに、汚い言い方になってしまうが「版権使用料さえ払ってしまえばあとはこっちのもん」と言わんばかりに好き勝手な改変をしまくったドラマや映画が、氾濫している状態なのだ。
もちろん、漫画や小説と映像の「映え方」の違い、連続ドラマや映画などの尺の違いもあるし、改変そのものをすなわち「悪」とは思わない。
なかには上記の記事に書かれている「1リットルの涙」のように、原作関係者から好意的に受け入れられている改変もある。
だがそのいっぽうで、原作ファンからすると堂々と原作と同じ名前を名乗り、原作の人気や有名さにあやかってお金もうけしている。原作を尊重していないという思いを抱かせるような、見るも無残な改変も多々あるのが事実だ。
いまでも思い出すと心が痛むのが、わたしの大好きな漫画、きくち正太先生の「おせん」がテレビドラマ化されたときの事件だ。
ウィキペディアを引用しながらことのしだいを記す。
ドラマを見たきくち先生は「原作とのあまりの相違にショックを受けたために創作活動をおこなえない」として連載を突如告知なしで中断した。
作品とは作者にとって子供のようなもので、その子供が嫁に行き、「幸せになれるものと思っていたら、それが実は身売りだった」とさえ先生は語っている。
それに関係してか、ドラマ最終話ではそれまでの「原作」表記ではなく「原案」表記に変わっている。
筆を折られてしまったきくち先生は、2008年4月のテレビドラマ開始直後から「おせん」を休載。
2008年11月25日発売の24号から連載を再開し、この際に『真っ当を受け継ぎ繋ぐ。』のサブタイトルがつき、単行本の巻数も1巻から再スタートされている。
この『真っ当を受け継ぎ繋ぐ。』の第1話は痛烈なテレビ批判から始まるのである。
このように原作の改変に対し強い抗議をしめせる作者さんはおそらくごく一部だろう。
映画やドラマの制作側は、作者個人とは比較にならないほど強いパワーを有しているし、ここに出版社の商売も絡んでくる。
特に漫画家という職業はただでさえブラックと言われる。作家さんのなかには1日20時間作業したと告白している方もいるほど。
そんな文字通り寝る間もなく労働している方たちが改変に抗議したり口出ししたりできるような余裕は時間的にも心理的にもないだろうから、泣き寝入りした方々もいるんだろうなと思う。
原作のファンからすれば「ここを変えられたらもうその作品と同じ題名では呼べないよ」というような、
「まあちょっとは類似してるけど別の話だよ」と言いたくなるような映像が原作と同じ題名を名乗っている。
わたしはひとつ前の記事で、銀魂の実写版に絡めて「2次元の実写化は原作のコアなファン向けではないと思っている」という認識を書いた。
その認識は今も変わらない。
けれどもそんなふうに割り切ろうとしてしまう自分自身が悲しくもある。
だって本当の本当の気持ちを言えば、これぞこの作品を原作にした映画だ!ドラマだ!と原作ファンが感涙にむせぶような映像が生まれてくれはしないものかなあ、と考えているのだ。
わたしの大好きな作品を単なるビジネスの材料としてだけではなく、こころから愛してその愛のあまりに映像化しましたというような映画やドラマが見られたらきっとすごく幸せだろうなあと。
「原作」つきの映画やドラマをやるというのは、ただ「版権使用料を払えばいい」というだけの話ではなくて、その著作権を有する人への敬意、著作に対する愛もあってほしいなあと、子どもっぽい綺麗ごとかもしれないけれど、やっぱりそう思ってしまう。
本当はこの思いは自分のiPhoneメモ帳にこっそりしまっておくつもりだったのだけど、ツイッターでいろいろ語っていたらおさまりがつかなくなったので気持ちの整理をつけるためにここにアップしておく。