賛否どっちつかずな実写版「銀魂2」所感(ネタバレ含)


まずはじめに二次元の実写映画化というものに対する私のもともとの考えを示しておきたい。


実写化のたびにネットで批判の嵐が巻き起こるのに、それでもなお毎年たくさんの漫画やアニメが実写映画化されるはなぜのか。


それはひとえに「手堅いビジネス」だからなのだろうと思う。


1からオリジナルの脚本を創り上げるためにかかる時間や労力や予算といったコスト、

にも関わらず無数にある既存の創作物とネタかぶりしてパクリと糾弾されるリスクや大ゴケするリスク、

それらが「割りに合わない」のかもしれない。


それであれば元から人気のある原作をもとに脚本をつくって、人気のある俳優さんを起用して映画を撮るほうがずっとコスパがいい。

原作者には版権使用料を払っておけばそれでいいんだし。


文句言いつつ原作のファンはなんやかんやで観に来るし、俳優さんの演技目当てで来る層もいるし、二次元の実写化は「大当たりはなかなかしないが大ゴケもせず堅実に収入を得られるビジネス」なのだと思う。


つまり実写映画は、原作のガチファン層向けのものとしては元々つくられていないはずだ。


主なターゲットは

・好きな役者さんの演技が見たい層

・原作をふんわり知ってる、そこそこ好きレベルのライトな読者層

・友達同士や恋人同士で見るのにちょうどよさそうな映画をなんとなく見たい層

などだと思う。


こういう考え方で今まで色んな実写映画をスルーしてきた。

だってほらnot for meだから…もともと私をターゲットにしたものじゃないから…と。


ちょっと斜に構えていた。


けれどそんなふうに余裕をぶっこいていられたのも、銀魂の実写映画化が決定したと報じられるまでだった。


いや、銀魂は、銀魂だけは「いや〜not for meだから〜」なんてスルーとかぜんぜんできない無理。

私の大切なものを土足で踏み荒らされるような気分。


それが、実写化を知った一番最初の感情だった。


私のその気持ちを払拭してくれたのは空知先生の「もう今さら何をやっても読者の皆さんの銀魂のキャラ像はブレないと信じていますし、」という一言だった。


作者さんが私を信じてくれてるんだ。実写でどんな解釈違いが出てこようと、そんなことで揺らぐようなもんじゃないでしょ、きみの心に住んでる銀魂のキャラ像は、とそう言ってくれているんだ。

こんなにファンとして幸せなことがあるだろうか?


私はそのたった一言で「実写を見てみてもいいかも」と気持ちを変え、それどころか見るのが楽しみになった。


ただこの時を振り返ってひとつ反省すべき点がある。

私は、上映前に「ひょっとしたら福田監督の映画銀魂はnot for meじゃないかもしれない。私向けかもしれない」と過剰に期待してしまったのだ。


当時、福田監督はインタビューやツイッターなどで繰り返し原作のファン(厳密にいえばアニメのファンかもしれない)であることをアピールしていた。

ファン向けのリップサービスや、宣伝の一環として言っただけかもしれないそれらの言葉を私はすなおに鵜呑みにしてしまった。


「監督も私と同じ『空知英秋先生の銀魂』ファンなんだ」と仲間意識が芽生え、無防備に胸襟を開いたのだ。


結果、実写1を見終わったあとに「面白かった〜!」という爽快感と「こんなにひどい改変をするなんて…」という解釈違いによる不快感、ふたつの相反する感覚が同時に湧き起こって葛藤することになった。


映画を見て楽しいシーンがたくさんあったのに、実写化されてよかったと思うことができない。

だって、監督も銀魂が好きって言っていたのに。私が読んできた、私が好きなのと同じあの「銀魂」が好きなら、ファンならここを改変するはずがないでしょ? これが「公式」になってしまうなんて! と考えて悔しくなってしまう。


私は罪悪感に苦しんだ。

空知先生がせっかく信じてるって言ってくれたのに。何をやっても私の中の銀魂のキャラ像はブレないはずだって信じてるって言ってくれたのに。

なのにこんなに揺らいじゃって情けない。映画を受容できなくて恥ずかしい。こんなうじうじしたファンでごめんなさいという気持ちでいっぱいだった。


でもそんな私を楽にしてくれたのも、結局は空知先生の言葉だった。

ビジュアルブックの書き下ろしメッセージ。


「皆さんがこの本を手にする頃にはすでに映画は公開されヤフーレビューが袋叩きになり

やっぱり銀魂は空知先生のが一番だな という書き込みを読んで僕がほくそ笑んでいる頃でしょうが」


空知先生の頭の良さには目を見張るものがある。

もうなんか銀魂よんでても何回も目を見張ってるので常に目を見張りすぎて目が充血するレベル。


空知先生は実写への批判を巧みに宥めつつ、それでもやっぱりどうしても実写との解釈違いに苦しむファンが一定数いるだろうことも見越していた。


そして自分が悪辣な役割を担うことで「信じてるとまで言ってもらえたのに実写の解釈違いを許容することができなかった」という私の罪悪感を拭い取ってくれた。そういう読者もいるよねと認めてくれた。


いや、ただのギャグでしょう?

そこまで深く考えて言ってないんじゃない?空知先生だって。

と思う方ももちろんいるはずだが、あくまでも私個人はこういうふうに受け取ってずいぶん救われた。


空知先生の言葉で冷静になり「原作を好きとは言っていてもこれは『銀魂』という枠組みを借りた福田監督の自己表現なんだ。だから解釈違いがあって当たり前だし、許容できないところは許容しないまま楽しめたところだけ評価すればいい」と思えるようになった。


そして1年後に公開された今回の実写第2弾。

第1弾のときに上記のような心の動きを経験していたため、意識的に過剰な期待、願望の押し付けを抑えて映画を楽しむことができたと思う。


前置きが長くなったが、そんな原作厨とも言える私の目の目から見た実写版 銀魂2の良いところ、悪いところを書いていきたい。


【良いところ】

・役者さんの演技

・役者のビジュアルの作り込み

・ギャグの面白さ

・バトルシーンのかっこよさ


・役者さんの演技

→ばらばらでちぐはぐな脚本を、役者さんたちの本気の演技が繋ぎ合わせてパッチワークにし、映画としての体裁を保っていたように思う。


特に感銘を受けたのが三浦春馬さんの伊東鴨太郎の演技で、

神経質そうで潔癖そうで、有能さを鼻にかけたようなちょっと気取った喋り方が鴨そのものだった。


これは先天的な身体的特徴で演技ではないけれど、三浦さんのあの白くて細長い筋張った指のかたちも、私が想像していた鴨の手にそっくりだった。


あの指が眼鏡のブリッジを押し上げるとき、小刻みに震えていたシーンが覚えている限りで2度ある。


顔つきは鋭く冷淡で、声色も落ち着き払っているのに指だけが震えている…なにかを恐れているみたいに。

鴨の内側の繊細さが視覚的に表現されていることに胸をうたれた。

あれは敢えての演技だったのだろうか、それとも無意識だったのだろうか。


三浦さんは目線の使い方も見事だった。

見下した目、殺意のこもった目、狂喜の目、恐怖の目、瀕死の目。目だけで感情や痛みが伝わってくる。


実写1からの既存の役者さんたちも、より練度の高い演技をされていたように思う。

中村勘九郎さんなどは1のときに生かしきれなかった「歌舞伎役者の発声と滑舌のよさ」という強みを今作でいかんなく発揮されていた。


アニメの声優さんの演技と比べると、どうしても俳優さんの話し方は舌足らずに聞こえるし発声も頼りなく感じる。

生身の人間を演じるには俳優さんの喋り方のほうがより自然で良いのだが、長年アニメの銀魂にも親しんできている以上、私は物足りなさをどうしても感じる。


だが中村勘九郎さんの発声は舞台向きの迫力のあるものなので、電車の中で鴨の造反を知った近藤さんが豪快に笑い飛ばしながら自分をふんどし、真選組の仲間たちを垢に例える一連のセリフには心底聞き惚れた。

近藤さんのいやみのない「威厳」が声によって表現されていたように感じる。


・役者さんのビジュアルの作り込み

→役者さんの顔だけを思い浮かべても「なんであの人がこのキャラ?」ピンとこないなあ…という感じだけれど、ビジュアルの寄せ方が絶妙で「あ〜見てみたらしっくり来たわ〜!」となる。これは本当に純粋にすごいと思う。


・ギャグの面白さ

→これはあの、本当に佐藤二朗さんとムロツヨシさんがずるすぎる。

あのふたりはなんかひとこと喋るだけでもう異様に面白い。生理的に面白い。

生理的に受け付けないとか、生理的に気持ち悪いという感情は今まで味わったことがあるけど「生理的に面白い」という感覚は初めて。

笑い疲れて上映後ぐったりした。


・アクションシーンのかっこよさ

→1のアクションシーンがあんまり…だったので期待していなかったが、すごく迫力とスリルのあるアクションで見応えがあった。


特に橋本環奈さん、吉沢亮さん、窪田正孝さんの身体能力の高さが目立った。



【悪いところ】

・物語の脊髄をボッキリ抜き取った改変の数々

・もしかして空知流ギャグと福田流ギャグって相性悪くない?


・物語の脊髄をボッキリ抜き取った改変の数々

→鑑賞直後にツイッター

「実写2観てきました。総評としては今回も1と同じく手放しに面白い部分と許容し難い解釈違いが複雑に織り混ざってる感じ。

しかしfkd監督は原作ファンにとって「そこだけは変えてくれるな」という部分ばかりをピンポイントでばっさり変えるよなあ…これも換骨奪胎というのか、ある種の才能なのか?🧐」


と私は呟いたが、この「そこだけは変えてくれるな」という部分を具体的にあげると、まずはまあ皆思ったろうけど

土方十四郎が妖刀に魂を食われたという動乱篇の根幹ともいえる設定を天人のマシンで脳みそうんぬん、に変えたところ。


武士の命である刀だからこそ魂を食われる意味があったわけじゃないですか、言うまでもなく。

ていうか土方十四郎という男は相手が刀でもないかぎり魂喰われっこなくない?

土方十四郎ナメてんの?? あ〜んコラあ〜ん?? と私の中のチンピラが暴れ出す。


この改変が「どうしても発信したいメッセージがあるから仕方なく変えたんだ」ってものだったらまだいいんだけど、

ムロツヨシさんを出演させたいから鉄子ちゃんの登場シーンを源外さんにすり替える必要があって、

そのために妖刀を機械にすげ替えたんだろうな」というのが透けてしまっていて、観ててげんなりする。


ここを無理に改変したせいで土方さんが抜刀しようと奮闘するシーンも意味不明なものになっちゃってる。

最後の土方さんの「全部背負って生きていく」というセリフも脈絡がなくなっちゃってる。

話の屋台骨を外してるからぐらんぐらんのブレブレ。


ただここがものすごく難しいところで、無理な改変でストーリーが犠牲になっているのに、ストーリーを犠牲にしてまで登場させたムロツヨシさんが生理的に面白くて体がくの字に折れ曲がるほど爆笑してしまった。エンターテイメント性は高い。



そして、沖田と鴨の会話シーン。

鴨のセリフに「天人の機械も高くついたが…」というようなものがあった。


え?

ひょっとして沖田は鴨が土方さんを陥れるためにあの機械を使うことをあらかじめ知っていた?


それどころか、あの機械を撃ち込む隙をつくるために、「すまいる」の前で土方さんをひとり警邏に向かわせるよう誘導した?

だから土方さんの後を追おうとした山崎を止めた…?


これはちょっと言葉がない。

あんまりな改変だと思う。


福田監督がもしも銀魂を1訓も漏らさず通しで読んでいて、

それでも沖田総悟を彼のセリフどおり「近藤さんの隣以外は眼中にない、それ以外はどうでもいい男」なのだと認識したのだとしたら、

脚本家としては致命的なほどに読解力がないと言わざるを得ない。


アニメのギャグシーンだけつまみ見していてシリアス部分は見ていない可能性のほうが高いというか、むしろつまみ見なことを祈りたいレベル。


沖田の土方さんに対する感情は「大好きな近藤さんに頼られている」「大好きな姉を取られた」という嫉妬心、どこかで「どうしてもあいつには敵わない」と認めているからこその敵愾心、末っ子としての甘えなどがあり、複雑かつ繊細にねじくれまくっている。


ねじくれまくってはいるが、たしかに根底には土方さんへの敬意が存在していると思う。

そこをばっさりなかったものにするのか…と呆れてしまった。


これ、つらいとかショックだとかいう言葉では収まり切らない失意のどん底に落ちている沖田推し、真選組推しの方々がいるのではないか…?と心配になってしまった。


あと予告の段階ですでにそこに改変ぶっこむんかい、と思っていた神楽ちゃんと沖田の共闘シーン。

とりあえずちゃんと映画を通しで見るまでは文句を言わないでおこうと黙っていたけど、実際に観たら本当になんの脈絡もなくぶっこまれていて半笑い。


せめて実写1のときにちゃんとサド丸と定春28号のくだりをカットせずに入れてくれていたらもうちょっと話の流れのぎこちなさが減ったのに。


それまで逆に不自然なくらい映画のなかで会話のなかった2人がいきなり一緒に戦いはじめるから「なんじゃこりゃ?」ときょとんとした。


そもそも私は動乱篇における沖田の見所は近藤さんへの思い、真選組への思い、剣士としての誇りなどだと思っている。

なので改変してまで沖VS神のやり合いを楽しむ話じゃないでしょ、という考え。


ついでに言えば加勢に来た神楽ちゃんの姿を見た沖田が、ホッとしたように体の力を抜く、というシーンがあったのがめちゃくちゃ解釈違いだ。

沖田はあんなに簡単に「自分戦いまくってしんどいっす!ピンチのときに味方の顔見てホッとしちゃったっす!」っていう姿をさらけ出すキャラではないと思う。



また、将軍暗殺と絡めて鴨の死を矮小化したこと。

これも、妖刀の存在を無かったことにしたのと同じく意味のない無理な改変に感じた。

なぜそこまでして将軍暗殺からめたのか。

おそらく将軍かよォォォのギャグシーンが撮りたい、窪田さんのスパイダーマンみたいな戦闘シーンが撮りたい、窪田さんと小栗さんのかっこいい戦闘シーンが撮りたい、堤真一さんの出演時間を増やしたい、というような撮りたいシーンと役者さんありきの改変だろう。


撮りたいシーンを先に構想して、シーンとシーンを無理矢理つなげるために脚本をつくったという感じ。



・もしかして空知流ギャグと福田流ギャグって相性悪くない?


→これは実写1のときからうすうす感じてはいたことだけど、2を見てはっきり思った。

空知先生のギャグと福田監督のギャグがかみ合っていない。


たとえば佐藤二朗さんやムロツヨシさんの登場シーンのような福田監督独自のギャグシーンはめちゃくちゃ笑えるし、将軍様ゲームのくだりや床屋のちょんまげ無理やり結おうとするくだりなど原作をほぼ再現した部分もすごく笑えるけれど、

ちょいちょいある空知先生の描いた会話やツッコミに福田監督が中途半端に手を加えた場面(そこのしゃくれ女と廃校寸前の〜ととっつぁんが声かけるシーンなど)がすごくぎこちない。噛み合っていない。


特にツッコミ部分は本家の志村新八に斜め45度の角度でキメ顔しながら「ただ大声で叫ぶだけがツッコミと思ってるなら笑止千万ですね」って言われそうな、あんまり面白くないものが多かった。


なんというか、「笑いの材質」が違うという感じがした。


例えるなら福田監督の笑いは、小学校にいた突然なんの脈絡もなくパンツを脱いでフリチンになりみんなを笑わせる男子のような、かなり直感的、感覚的な笑いで、

空知先生の笑いはドミノを丁寧に並べて、ひとつのドミノをちょんと押すとどんどん倒れていくように、最初の笑いがどんどん次の笑いを呼んで止まらない、というような計画的で計算された笑いという印象を受ける。


前者の笑いが劣っているという意味ではない。

ただパンツを脱ぐのでも、「え…お前なにやってんの…?」と引かれるだけで笑いを取れない子もいれば、「ちょ〜ウケる〜!」と爆笑必至の子も小学校にはいた。

パンツを脱いで笑いが取れるのも才能だと思う。


だけど高度な国語力を駆使して笑いを巻き起こすタイプの空知先生のギャグが、感覚的なギャグの得意な福田監督の手に余っているなぁとはどうしても思ってしまった。



ここまで思いつくままに所感をだらだらと述べた。

けれどもまとめると、

「シーンごとにぶつ切りして捉えれば名シーンいっぱいあった」

「ひとつの物語として捉えると地雷踏み抜きすぎの改変がいっぱいあった」

のふたことで終わってしまうかも。


しかし、実写2、お金かかってるなあ…。

前作の興行収入38.4億は、これだけ豪華な役者さんたちと、ド派手な演出ができるだけの成功だったんだなあ…。

原作者の空知先生の懐にもっと流れてほしいなあ、そんな思いを抱き、来週のジャンプもちゃんとアンケート出すぞって気合いが入りました。