時間が経てば経つほど実写銀魂に沖&神共闘の改変があったことがつらい。神楽ちゃんは隊士を殺してしまったのだろうか

はじめに、わたしはカップリングとしての沖神を推してはいない。

原作上のふたりの絶妙な関係性は好きだが、恋愛に発展してほしいとは思っていない。

 

なのでカップリングとして沖神が好きな方には偏った意見に見えるかもしれないことをご容赦いただきたい。

 

実のところわたしは「原作にはない沖神要素」をぶっ込まれることを、実写1の公開前からすでに覚悟していた。

 

実写版 進撃の巨人でミカサがエレンと長谷川博己さんと三角関係になったり、実写版テルマエロマエ2でルシウスと真実がラブロマンスに身を投じていたりしたせいだ。

(※8/28 進撃の巨人に出演された俳優さんをディーンフジオカさんと勘違いしておりました。ご指摘を受け長谷川博己さんと修正いたしました。失礼いたしました。)

 

とにかく実写映画というのは恋愛要素を入れなければ気が済まないのだろうという先入観がそこで生まれた。

 

なので、わたしが新神と近妙というファンのなかでは少数派なカップリングを推していることを知っているリア友に公開前から

「実写で銀妙と沖神の要素が入れられることは覚悟してるんだ…」

と話していた。

 

友達は「え? 銀魂でそれはないしょ! 銀魂はそういう話じゃないでしょ!」とフォローを入れてくれていた。

 

実写1のときは予告篇を見て、紅桜篇の新八の名シーン「次は左手をもらう!」が沖田にすり替わっているのではないかという危惧もあったため、

わたしはそこそこ情緒不安定になっており友達のフォローにも「だって人気カプだもん…映画は恋愛要素を入れないとウケが悪いみたいだし…」とジメジメした返事をしていた。

 

結果、実写1では危惧していたような恋愛面の改変はなく、「次は左手をもらう!」もなぜか口調が「いただく」に変わってはいたが新八がちゃんとやってくれていたので安堵した。

 

(別のところでそこは変えないでくれよという場面は多数あったが、今回の主題には関係しないため言及しないでおく)

 

そういうわけで実写2の予告篇で神楽ちゃんと沖田の共闘シーンが流れたり、映画公式アカウントが橋本環奈さんと吉沢亮さんのツーショットを猛プッシュし始めたり、映画ポスターや関連グッズで神楽ちゃんと沖田が隣同士に配置されたりしているのを見て思ったことはこれだった。

 

「ついに来たか。一度は覚悟したことが遅れて来ただけだ」

 

実写2を実際に見たときも、あの共闘シーンは冷静に「アクションかっこいいなあ」とも思ったくらいだ。

絡み方が恋愛(×)ではなくコンビ(+)っぽい感じだったので嫌いではなかった。

 

とはいえなんでよりによってそこに改変要素を入れるんだ、と思ったのも事実で、

8/18にアップした実写銀魂 所感の記事では以下のように述べた。

 

> あと予告の段階ですでにそこに改変ぶっこむんかい、と思っていた神楽ちゃんと沖田の共闘シーン。

> とりあえずちゃんと映画を通しで見るまでは文句を言わないでおこうと黙っていたけど、実際に観たら本当になんの脈絡もなくぶっこまれていて半笑い。

 

> せめて実写1のときにちゃんとサド丸と定春28号のくだりをカットせずに入れてくれていたらもうちょっと話の流れのぎこちなさが減ったのに。

 

> それまで逆に不自然なくらい映画のなかで会話のなかった2人がいきなり一緒に戦いはじめるから「なんじゃこりゃ?」ときょとんとした。

 

> そもそも私は動乱篇における沖田の見所は近藤さんへの思い、真選組への思い、剣士としての誇りなどだと思っている。

> なので改変してまで沖VS神のやり合いを楽しむ話じゃないでしょ、という考え。

 

> ついでに言えば加勢に来た神楽ちゃんの姿を見た沖田が、ホッとしたように体の力を抜く、というシーンがあったのがめちゃくちゃ解釈違いだ。

> 沖田はあんなに簡単に「自分戦いまくってしんどいっす!ピンチのときに味方の顔見てホッとしちゃったっす!」っていう姿をさらけ出すキャラではないと思う。

 

これが鑑賞直後の率直な気持ちだった。

だが時間が経った今、改変によるもっと重大な損失に気づいてしまった。

 

あの共闘シーン、原作を知らないひとには神楽ちゃんが隊士を殺してしまったように見えるのではないか。

 

これに気づいてから不安でしかたない。

 

粛清のシーンは真選組一番隊隊長である沖田総悟がたったひとりでやり遂げるからこそ意味のあるシーンで、神楽ちゃんの手を借りては台無しになる、という指摘はすでに複数の方がされているし、わたしもその通りだと思う。

 

だけどそれだけではなく、あの実写の神楽ちゃんはもしかしたら人を殺してしまったのだろうか。

分からない。あまりにも動きの速いアクションシーンだったし、断定はできない。でも映画だけを見たら神楽ちゃんは隊士をあやめたと受け取るひともいておかしくない演出だったと思う。

 

銀魂」の神楽ちゃんは。

万事屋の神楽ちゃんは、夜兎の血に負けて人を殺しはしないと、その手をけっして汚さないと決意して地球に残った。

そうして、「かぶき町の子ども」になった、優しいやさしい女の子だ。

 

彼女と志村新八のふたりが「ひとを殺していないこと」は銀魂における重要なポイントになっていると思う。

 

銀さんたちの世代までは時代の流れでやむを得ず人の命をたくさん奪ってきた世代だ。

そして銀魂はそこから次の世代への「継承」も描いている話だと思う。

 

次の世代にあたる新八と神楽ちゃんには、戦いに身を投じざるを得ないとしても人の命を直接的に奪ってはほしくないのだろうという想いを、わたしは作品から感じている。

 

新八は似蔵や阿伏兎、尾美一、虚相手など、ここぞという場面で剣を向けるときは必ず急所ではなく腕を攻撃するよう描かれているし、

神楽ちゃんが夜兎の血にのまれて阿伏兎を殺しかけたときには新八が命がけで制止したという事実がある。

 

つい最近、単行本74巻に収録されたばかりの669訓でも、みんなで虚を取り囲んでとどめの一撃を加えるシーンで、新八と神楽ちゃんだけは虚の胴体ではなく腕を攻撃している。

 

夜兎の血で戦うのではなく、血と戦いたい。

人を傷つけるのではなく、人を護りたい。

それは神楽ちゃんの一貫した行動原理である。

 

その神楽ちゃんが実写のあの共闘シーンでひとを殺したかもしれない、ないしは殺したと誤解されたかもしれないと思うと、苦しい。

苦しくて苦しくてどうしたらいいか分からない。

 

そしてやっぱり原作の沖田なら神楽ちゃんに人殺しの加担はさせなかったと思う。

 

わたしはこのことに思い至ってから原作の六角篇を読み返した。

そこで沖田が神楽ちゃんにこう語るシーンがある。

「ガキにゃわかるめーよ てめェの手汚しても 護らなきゃいけねーモンってのが世の中にはあんだ」

「汚れちまった目ん玉だからこそ見える 汚しちゃならねェモンってのがあんだよ」

 

このセリフに集約されている通り、神楽ちゃんが「手を汚さない」決意と覚悟でかぶき町に残ったひとであるのに対して

沖田総悟、ひいては真選組は「手を汚す」覚悟と決意で上京して侍になったひとたちだ。

 

そんな本人の言う通り「人を殺して生きてる」、天才的な剣豪である沖田には神楽ちゃんがその並大抵ではない戦闘能力にも関わらず人を殺したことがないのは分かっていると思う。

 

六角篇の沖田の態度には歳下の女の子相手に突っ張りたい18歳の男の子らしさも感じるし、

霧江だけではなく神楽ちゃんに対してもどこか「お前はそのまま汚れてくれるな」と考えているようにも見える。

 

そんな沖田が、隊士の粛清という「真選組の仕事」……「自分の手を汚してやり遂げなければならない仕事」に、神楽ちゃんの加勢をゆるすはずがないのではないか?

 

六角篇は真選組動乱篇よりも100話以上も後の話で、これを持ち出すのはずるいかも知れないが、

沖田には「自分は汚れている」「歪んでいる」といったナイーブなコンプレックスがあり、しかしだからこそ「そんな自分にしかできない汚れ仕事もある」と自負してもいることはミツバ篇や動乱篇からもうかがえると思う。

 

そういう沖田なりの哲学が実写からは感じられず、ただ美貌と剣の才能を暴力的に振りかざす男になってしまっていたことが無念だ。

 

何よりも、神楽ちゃんはなんのために手を汚したのかを考えると悔しい。

なんのためにって…それが監督いわく「嫁に沖神シーンを入れろと言われた」がために神楽ちゃんは…神楽ちゃんは手を…。

 

わたしの大好きな女の子が、その眩しい笑顔をずっとまもりたいという気持ちにさせる女の子でありながら、その強さに憧れるヒーローでもある女の子のだいじなだいじな手が…。

 

実写がきっかけになって原作の銀魂に新規のファンが増えてくれたらいいとわたしは思っている。

けれども、実写を見て「動乱篇のときに神楽ちゃんが手を汚した」というバイアスがかかった状態で原作を読んでも、大事なところが伝わらないかも知れない。

 

すごく虚しい気持ちになってしまって、今はどうしたらいいのか分からない。ただひたすらに苦しい。

実写の神楽ちゃんが殺していないって信じたい。殺しているようには見えないって信じたい。くるしい。

 

でもひとつ感謝することがある。

わたしはふだん万事屋のことばかり考えている人間なので、実写というきっかけがなければ真選組のことをこんなにじっくり考える機会はなかったかもしれない。

ファン歴12年にしてキャラに関して新たな気づきも得られた。

より原作を大好きになったから、そこは実写に感謝している。

 

 

余談

ネガティブ全開な記事になってしまったので最後に余談。

六角篇の「塩をなめきった ふやけてもうハッピーでもなんでもない アンハッピーターンをくれてやろう」という神楽ちゃんのセリフ。

あれを読むたび、小学生のときに友達がポッキーのチョコレートの部分を全部なめきって袋のなかに戻し、

友達のお兄ちゃんがそれを「うわ珍しい!ポッキーのなかに一本だけプリッツ入ってる!」と食べてしまったあとに

友達の所業がばれてお兄ちゃんにボコボコにされたという話を思い出してしぬほど笑ってしまう。

神威くんと神楽ちゃんもそんなきょうだいゲンカをやってそうである。

「カメラを止めるな!」騒動から“原作”と“原案”の違いを知って感じた実写化ブームへの思い

*この記事は8/22にメモ帳に書いていたものです


上田監督の話題作「カメラを止めるな!」の原作は舞台「GHOST IN THE BOX」であると舞台の製作者・和田亮一さんが主張している旨を今朝がたニュース(とくダネ)で見た。


ちょうどわたしがその映画を見てみたいなぁと思っていた矢先のことだった。


上田監督は舞台を映画化する意向を事前に劇団関係者に伝えていて、和田さんも当初はツイッターフェイスブックで映画のことを応援する意思を発信していたが、

映画を見たところクレジットに舞台のことや和田さんならびに劇団関係者の名前が書かれていなかったことが気になったという。


その後、クレジットに「原案」として和田さんたちの名前が記載されるようになったが、和田さんとしてはそれでは自分の作品が軽く扱われているように感じる、「原作」として記載してほしいと主張。


対する上田監督は、和田さんの舞台からアイディアは貰ったものの、あくまでも自分のオリジナル作品であるとの考えを示し、和田さんとの和解を望んでいるそうだ。


どっちの気持ちも分かるなあと思った。

たとえば上田監督がフレンチ料理のシェフで、和田さんが日本料理の板長だとする。

上田シェフは和田板長の料理に感銘を受けて、それをもとにフレンチ・ジャパニーズ的な料理をつくって自分のレストランで出した。


上田シェフとしては確かにアイディアはもらったし、食材とか調味料とか一部かぶってるけどレシピを考案したのは自分なんだから自分の料理だと言う。


和田板長は、いやでも俺の料理がなかったら君はそのレシピを思いつけなかったわけじゃん? なのに自分がイチから考えました全部自分の手柄ですっていう態度なのはおかしいよねと言う。


わたしは自分が上田監督の立場だったら上田監督と同じ主張をするかもしれないし、和田さんの立場だったら和田さんと同じ主張をするかもしれないと考えた。


特に和田さんの「もともとは自分が生み出した作品なのに、自分の作品は世に埋もれ無かったことにされてしまうのか」という悲しみ、悔しさは、上田監督の映画が記録的な成功をおさめればおさめるほどに強く深くなっていくだろう。


争点である上田監督の行為が著作権侵害にあたるかどうかという点だが、

ニュースを見た限りではわたしは「侵害とまで認定するには弱いかもしれない」と感じた。


ニュースでは映画と舞台の類似点として

・物語の出だしが一致する(ゾンビに女性が襲われてあわや…というところで「カット!」の声がかかり、映画の撮影だったことがわかる)

・物語の舞台が廃屋である

・旧日本軍が人体実験をしていた設定である

といった点が挙げられていたが、


正直どれも目新しい設定ではない。よくある王道のシチュエーションだと思う。


ひとつひとつの要素が王道であってもその組み合わせに創作性があるのだということと、

物語の中核あらわす「カメラを止めるな!」という決め台詞が一致するということを考慮すれば、

もしも訴訟を起こした場合に和田さんが勝訴する可能性はゼロではないのかも知れない。


だが、著作権侵害と認定することは、その作品の出版を差し止めできるくらい、作品自体を存在しなかったことにできるくらい強い権利であると、少し前にニュース記事で読んだ。

(北条裕子さんの「美しい顔」に引用文献の記載がなかったことが問題になったときである)


裁判でくだされた判決は判例として、以降 類似した訴訟が起こったときの参考、判決の論拠にされる。


ここで上田監督の著作権侵害を認めると、ほかにも著作権侵害が成り立つ創作物はおそらくごまんとある。

また人間があらゆる創作物の影響をまったく受けずに創作活動をすることが不可能な以上、創作活動じたいの未来を萎縮させる可能性もあることを考えると、和田さんの気持ちに寄り添いたいわたし個人の気持ちは別にして、

和田さんの「原作」扱いにしてほしいという要望が叶えられることは難しいのではないかと思った。


ここまでは素人考えの与太話である。

で、本題だが、わたしがこのニュースでもっとも関心を抱いたのは「原案」と「原作」の法律上での相違点についてだ。


「原案」はあくまでもアイディアをもらったことへの謝意をあらわすもので、

原案者に許諾をもらったり、ギャラを支払ったりする必要がないのに対し、

「原作」は原作者に著作権があり、関連したものを出版したり配給する際は許諾を得ること、金銭を支払うことが必要であるという。


つまり「原作」がある作品は「原案」のある作品よりもずっと元ネタに忠実であるということになる。

へえ〜全然しらなかった! 勉強になったわ〜!


え?

でもちょっと待って。


「原作」に忠実…とは…?

「原作」を見る影もなく改変した映像化、あまりにも多すぎない?


例えばまっさきに思い浮かぶのが黒執事の実写映画である。

ウィキペディアによるとこの映画は


>原作者・枢やな承認のもと、原作から約130年が経過した2020年のアジア某国で繰り広げられる映画完全オリジナルストーリーとなっている。


らしい。執事のセバスチャン以外の登場人物はみんな原作のキャラをモデルにしながら、名前も容姿も異なる人物である。


また、原作と原案の違いを調べていたところこのような記事も見つけた。


テレビ局も抱える著作権トラブル、"原作"と"原案"の違いは? http://lite-ra.com/2013/08/post-116.html @litera_webさんから


以下に原作から大きな改変があった作品を挙げている部分を引用する。


>よく知られているのは、月9ドラマ『ガリレオ』(フジテレビ系/07年~)シリーズのケースだ。柴咲コウ吉高由里子が演じた女性刑事は、原作である東野圭吾の小説には登場しないし、大ヒットを記録した映画『テルマエ・ロマエ』でも、物語の重要人物である上戸彩演じる女性マンガ家は、原作ではまったく描かれていない。また、木皿泉脚本の『野ブタ。をプロデュース』(日本テレビ系/05年)も同様で、亀梨和也堀北真希と共に主演とした山下智久の役は、白岩玄の原作では存在しない。現在、高視聴率を獲得しているあの『半沢直樹』(TBS系)だって、ストーリーは原作に忠実ではあるが、原作では堺雅人演じる主人公の父親は自殺しておらず、妻も広告代理店で働くやり手で、ドラマの上戸彩のように社宅妻たちとの付き合いに頭を悩ませる専業主婦ではない。


こんなふうに、汚い言い方になってしまうが「版権使用料さえ払ってしまえばあとはこっちのもん」と言わんばかりに好き勝手な改変をしまくったドラマや映画が、氾濫している状態なのだ。


もちろん、漫画や小説と映像の「映え方」の違い、連続ドラマや映画などの尺の違いもあるし、改変そのものをすなわち「悪」とは思わない。


なかには上記の記事に書かれている「1リットルの涙」のように、原作関係者から好意的に受け入れられている改変もある。


だがそのいっぽうで、原作ファンからすると堂々と原作と同じ名前を名乗り、原作の人気や有名さにあやかってお金もうけしている。原作を尊重していないという思いを抱かせるような、見るも無残な改変も多々あるのが事実だ。


いまでも思い出すと心が痛むのが、わたしの大好きな漫画、きくち正太先生の「おせん」がテレビドラマ化されたときの事件だ。

ウィキペディアを引用しながらことのしだいを記す。


ドラマを見たきくち先生は「原作とのあまりの相違にショックを受けたために創作活動をおこなえない」として連載を突如告知なしで中断した。

作品とは作者にとって子供のようなもので、その子供が嫁に行き、「幸せになれるものと思っていたら、それが実は身売りだった」とさえ先生は語っている。

それに関係してか、ドラマ最終話ではそれまでの「原作」表記ではなく「原案」表記に変わっている。


筆を折られてしまったきくち先生は、2008年4月のテレビドラマ開始直後から「おせん」を休載。

2008年11月25日発売の24号から連載を再開し、この際に『真っ当を受け継ぎ繋ぐ。』のサブタイトルがつき、単行本の巻数も1巻から再スタートされている。


この『真っ当を受け継ぎ繋ぐ。』の第1話は痛烈なテレビ批判から始まるのである。


このように原作の改変に対し強い抗議をしめせる作者さんはおそらくごく一部だろう。

映画やドラマの制作側は、作者個人とは比較にならないほど強いパワーを有しているし、ここに出版社の商売も絡んでくる。


特に漫画家という職業はただでさえブラックと言われる。作家さんのなかには1日20時間作業したと告白している方もいるほど。

そんな文字通り寝る間もなく労働している方たちが改変に抗議したり口出ししたりできるような余裕は時間的にも心理的にもないだろうから、泣き寝入りした方々もいるんだろうなと思う。


原作のファンからすれば「ここを変えられたらもうその作品と同じ題名では呼べないよ」というような、

「まあちょっとは類似してるけど別の話だよ」と言いたくなるような映像が原作と同じ題名を名乗っている。


わたしはひとつ前の記事で、銀魂の実写版に絡めて「2次元の実写化は原作のコアなファン向けではないと思っている」という認識を書いた。


その認識は今も変わらない。

けれどもそんなふうに割り切ろうとしてしまう自分自身が悲しくもある。


だって本当の本当の気持ちを言えば、これぞこの作品を原作にした映画だ!ドラマだ!と原作ファンが感涙にむせぶような映像が生まれてくれはしないものかなあ、と考えているのだ。


わたしの大好きな作品を単なるビジネスの材料としてだけではなく、こころから愛してその愛のあまりに映像化しましたというような映画やドラマが見られたらきっとすごく幸せだろうなあと。


「原作」つきの映画やドラマをやるというのは、ただ「版権使用料を払えばいい」というだけの話ではなくて、その著作権を有する人への敬意、著作に対する愛もあってほしいなあと、子どもっぽい綺麗ごとかもしれないけれど、やっぱりそう思ってしまう。


本当はこの思いは自分のiPhoneメモ帳にこっそりしまっておくつもりだったのだけど、ツイッターでいろいろ語っていたらおさまりがつかなくなったので気持ちの整理をつけるためにここにアップしておく。

賛否どっちつかずな実写版「銀魂2」所感(ネタバレ含)


まずはじめに二次元の実写映画化というものに対する私のもともとの考えを示しておきたい。


実写化のたびにネットで批判の嵐が巻き起こるのに、それでもなお毎年たくさんの漫画やアニメが実写映画化されるはなぜのか。


それはひとえに「手堅いビジネス」だからなのだろうと思う。


1からオリジナルの脚本を創り上げるためにかかる時間や労力や予算といったコスト、

にも関わらず無数にある既存の創作物とネタかぶりしてパクリと糾弾されるリスクや大ゴケするリスク、

それらが「割りに合わない」のかもしれない。


それであれば元から人気のある原作をもとに脚本をつくって、人気のある俳優さんを起用して映画を撮るほうがずっとコスパがいい。

原作者には版権使用料を払っておけばそれでいいんだし。


文句言いつつ原作のファンはなんやかんやで観に来るし、俳優さんの演技目当てで来る層もいるし、二次元の実写化は「大当たりはなかなかしないが大ゴケもせず堅実に収入を得られるビジネス」なのだと思う。


つまり実写映画は、原作のガチファン層向けのものとしては元々つくられていないはずだ。


主なターゲットは

・好きな役者さんの演技が見たい層

・原作をふんわり知ってる、そこそこ好きレベルのライトな読者層

・友達同士や恋人同士で見るのにちょうどよさそうな映画をなんとなく見たい層

などだと思う。


こういう考え方で今まで色んな実写映画をスルーしてきた。

だってほらnot for meだから…もともと私をターゲットにしたものじゃないから…と。


ちょっと斜に構えていた。


けれどそんなふうに余裕をぶっこいていられたのも、銀魂の実写映画化が決定したと報じられるまでだった。


いや、銀魂は、銀魂だけは「いや〜not for meだから〜」なんてスルーとかぜんぜんできない無理。

私の大切なものを土足で踏み荒らされるような気分。


それが、実写化を知った一番最初の感情だった。


私のその気持ちを払拭してくれたのは空知先生の「もう今さら何をやっても読者の皆さんの銀魂のキャラ像はブレないと信じていますし、」という一言だった。


作者さんが私を信じてくれてるんだ。実写でどんな解釈違いが出てこようと、そんなことで揺らぐようなもんじゃないでしょ、きみの心に住んでる銀魂のキャラ像は、とそう言ってくれているんだ。

こんなにファンとして幸せなことがあるだろうか?


私はそのたった一言で「実写を見てみてもいいかも」と気持ちを変え、それどころか見るのが楽しみになった。


ただこの時を振り返ってひとつ反省すべき点がある。

私は、上映前に「ひょっとしたら福田監督の映画銀魂はnot for meじゃないかもしれない。私向けかもしれない」と過剰に期待してしまったのだ。


当時、福田監督はインタビューやツイッターなどで繰り返し原作のファン(厳密にいえばアニメのファンかもしれない)であることをアピールしていた。

ファン向けのリップサービスや、宣伝の一環として言っただけかもしれないそれらの言葉を私はすなおに鵜呑みにしてしまった。


「監督も私と同じ『空知英秋先生の銀魂』ファンなんだ」と仲間意識が芽生え、無防備に胸襟を開いたのだ。


結果、実写1を見終わったあとに「面白かった〜!」という爽快感と「こんなにひどい改変をするなんて…」という解釈違いによる不快感、ふたつの相反する感覚が同時に湧き起こって葛藤することになった。


映画を見て楽しいシーンがたくさんあったのに、実写化されてよかったと思うことができない。

だって、監督も銀魂が好きって言っていたのに。私が読んできた、私が好きなのと同じあの「銀魂」が好きなら、ファンならここを改変するはずがないでしょ? これが「公式」になってしまうなんて! と考えて悔しくなってしまう。


私は罪悪感に苦しんだ。

空知先生がせっかく信じてるって言ってくれたのに。何をやっても私の中の銀魂のキャラ像はブレないはずだって信じてるって言ってくれたのに。

なのにこんなに揺らいじゃって情けない。映画を受容できなくて恥ずかしい。こんなうじうじしたファンでごめんなさいという気持ちでいっぱいだった。


でもそんな私を楽にしてくれたのも、結局は空知先生の言葉だった。

ビジュアルブックの書き下ろしメッセージ。


「皆さんがこの本を手にする頃にはすでに映画は公開されヤフーレビューが袋叩きになり

やっぱり銀魂は空知先生のが一番だな という書き込みを読んで僕がほくそ笑んでいる頃でしょうが」


空知先生の頭の良さには目を見張るものがある。

もうなんか銀魂よんでても何回も目を見張ってるので常に目を見張りすぎて目が充血するレベル。


空知先生は実写への批判を巧みに宥めつつ、それでもやっぱりどうしても実写との解釈違いに苦しむファンが一定数いるだろうことも見越していた。


そして自分が悪辣な役割を担うことで「信じてるとまで言ってもらえたのに実写の解釈違いを許容することができなかった」という私の罪悪感を拭い取ってくれた。そういう読者もいるよねと認めてくれた。


いや、ただのギャグでしょう?

そこまで深く考えて言ってないんじゃない?空知先生だって。

と思う方ももちろんいるはずだが、あくまでも私個人はこういうふうに受け取ってずいぶん救われた。


空知先生の言葉で冷静になり「原作を好きとは言っていてもこれは『銀魂』という枠組みを借りた福田監督の自己表現なんだ。だから解釈違いがあって当たり前だし、許容できないところは許容しないまま楽しめたところだけ評価すればいい」と思えるようになった。


そして1年後に公開された今回の実写第2弾。

第1弾のときに上記のような心の動きを経験していたため、意識的に過剰な期待、願望の押し付けを抑えて映画を楽しむことができたと思う。


前置きが長くなったが、そんな原作厨とも言える私の目の目から見た実写版 銀魂2の良いところ、悪いところを書いていきたい。


【良いところ】

・役者さんの演技

・役者のビジュアルの作り込み

・ギャグの面白さ

・バトルシーンのかっこよさ


・役者さんの演技

→ばらばらでちぐはぐな脚本を、役者さんたちの本気の演技が繋ぎ合わせてパッチワークにし、映画としての体裁を保っていたように思う。


特に感銘を受けたのが三浦春馬さんの伊東鴨太郎の演技で、

神経質そうで潔癖そうで、有能さを鼻にかけたようなちょっと気取った喋り方が鴨そのものだった。


これは先天的な身体的特徴で演技ではないけれど、三浦さんのあの白くて細長い筋張った指のかたちも、私が想像していた鴨の手にそっくりだった。


あの指が眼鏡のブリッジを押し上げるとき、小刻みに震えていたシーンが覚えている限りで2度ある。


顔つきは鋭く冷淡で、声色も落ち着き払っているのに指だけが震えている…なにかを恐れているみたいに。

鴨の内側の繊細さが視覚的に表現されていることに胸をうたれた。

あれは敢えての演技だったのだろうか、それとも無意識だったのだろうか。


三浦さんは目線の使い方も見事だった。

見下した目、殺意のこもった目、狂喜の目、恐怖の目、瀕死の目。目だけで感情や痛みが伝わってくる。


実写1からの既存の役者さんたちも、より練度の高い演技をされていたように思う。

中村勘九郎さんなどは1のときに生かしきれなかった「歌舞伎役者の発声と滑舌のよさ」という強みを今作でいかんなく発揮されていた。


アニメの声優さんの演技と比べると、どうしても俳優さんの話し方は舌足らずに聞こえるし発声も頼りなく感じる。

生身の人間を演じるには俳優さんの喋り方のほうがより自然で良いのだが、長年アニメの銀魂にも親しんできている以上、私は物足りなさをどうしても感じる。


だが中村勘九郎さんの発声は舞台向きの迫力のあるものなので、電車の中で鴨の造反を知った近藤さんが豪快に笑い飛ばしながら自分をふんどし、真選組の仲間たちを垢に例える一連のセリフには心底聞き惚れた。

近藤さんのいやみのない「威厳」が声によって表現されていたように感じる。


・役者さんのビジュアルの作り込み

→役者さんの顔だけを思い浮かべても「なんであの人がこのキャラ?」ピンとこないなあ…という感じだけれど、ビジュアルの寄せ方が絶妙で「あ〜見てみたらしっくり来たわ〜!」となる。これは本当に純粋にすごいと思う。


・ギャグの面白さ

→これはあの、本当に佐藤二朗さんとムロツヨシさんがずるすぎる。

あのふたりはなんかひとこと喋るだけでもう異様に面白い。生理的に面白い。

生理的に受け付けないとか、生理的に気持ち悪いという感情は今まで味わったことがあるけど「生理的に面白い」という感覚は初めて。

笑い疲れて上映後ぐったりした。


・アクションシーンのかっこよさ

→1のアクションシーンがあんまり…だったので期待していなかったが、すごく迫力とスリルのあるアクションで見応えがあった。


特に橋本環奈さん、吉沢亮さん、窪田正孝さんの身体能力の高さが目立った。



【悪いところ】

・物語の脊髄をボッキリ抜き取った改変の数々

・もしかして空知流ギャグと福田流ギャグって相性悪くない?


・物語の脊髄をボッキリ抜き取った改変の数々

→鑑賞直後にツイッター

「実写2観てきました。総評としては今回も1と同じく手放しに面白い部分と許容し難い解釈違いが複雑に織り混ざってる感じ。

しかしfkd監督は原作ファンにとって「そこだけは変えてくれるな」という部分ばかりをピンポイントでばっさり変えるよなあ…これも換骨奪胎というのか、ある種の才能なのか?🧐」


と私は呟いたが、この「そこだけは変えてくれるな」という部分を具体的にあげると、まずはまあ皆思ったろうけど

土方十四郎が妖刀に魂を食われたという動乱篇の根幹ともいえる設定を天人のマシンで脳みそうんぬん、に変えたところ。


武士の命である刀だからこそ魂を食われる意味があったわけじゃないですか、言うまでもなく。

ていうか土方十四郎という男は相手が刀でもないかぎり魂喰われっこなくない?

土方十四郎ナメてんの?? あ〜んコラあ〜ん?? と私の中のチンピラが暴れ出す。


この改変が「どうしても発信したいメッセージがあるから仕方なく変えたんだ」ってものだったらまだいいんだけど、

ムロツヨシさんを出演させたいから鉄子ちゃんの登場シーンを源外さんにすり替える必要があって、

そのために妖刀を機械にすげ替えたんだろうな」というのが透けてしまっていて、観ててげんなりする。


ここを無理に改変したせいで土方さんが抜刀しようと奮闘するシーンも意味不明なものになっちゃってる。

最後の土方さんの「全部背負って生きていく」というセリフも脈絡がなくなっちゃってる。

話の屋台骨を外してるからぐらんぐらんのブレブレ。


ただここがものすごく難しいところで、無理な改変でストーリーが犠牲になっているのに、ストーリーを犠牲にしてまで登場させたムロツヨシさんが生理的に面白くて体がくの字に折れ曲がるほど爆笑してしまった。エンターテイメント性は高い。



そして、沖田と鴨の会話シーン。

鴨のセリフに「天人の機械も高くついたが…」というようなものがあった。


え?

ひょっとして沖田は鴨が土方さんを陥れるためにあの機械を使うことをあらかじめ知っていた?


それどころか、あの機械を撃ち込む隙をつくるために、「すまいる」の前で土方さんをひとり警邏に向かわせるよう誘導した?

だから土方さんの後を追おうとした山崎を止めた…?


これはちょっと言葉がない。

あんまりな改変だと思う。


福田監督がもしも銀魂を1訓も漏らさず通しで読んでいて、

それでも沖田総悟を彼のセリフどおり「近藤さんの隣以外は眼中にない、それ以外はどうでもいい男」なのだと認識したのだとしたら、

脚本家としては致命的なほどに読解力がないと言わざるを得ない。


アニメのギャグシーンだけつまみ見していてシリアス部分は見ていない可能性のほうが高いというか、むしろつまみ見なことを祈りたいレベル。


沖田の土方さんに対する感情は「大好きな近藤さんに頼られている」「大好きな姉を取られた」という嫉妬心、どこかで「どうしてもあいつには敵わない」と認めているからこその敵愾心、末っ子としての甘えなどがあり、複雑かつ繊細にねじくれまくっている。


ねじくれまくってはいるが、たしかに根底には土方さんへの敬意が存在していると思う。

そこをばっさりなかったものにするのか…と呆れてしまった。


これ、つらいとかショックだとかいう言葉では収まり切らない失意のどん底に落ちている沖田推し、真選組推しの方々がいるのではないか…?と心配になってしまった。


あと予告の段階ですでにそこに改変ぶっこむんかい、と思っていた神楽ちゃんと沖田の共闘シーン。

とりあえずちゃんと映画を通しで見るまでは文句を言わないでおこうと黙っていたけど、実際に観たら本当になんの脈絡もなくぶっこまれていて半笑い。


せめて実写1のときにちゃんとサド丸と定春28号のくだりをカットせずに入れてくれていたらもうちょっと話の流れのぎこちなさが減ったのに。


それまで逆に不自然なくらい映画のなかで会話のなかった2人がいきなり一緒に戦いはじめるから「なんじゃこりゃ?」ときょとんとした。


そもそも私は動乱篇における沖田の見所は近藤さんへの思い、真選組への思い、剣士としての誇りなどだと思っている。

なので改変してまで沖VS神のやり合いを楽しむ話じゃないでしょ、という考え。


ついでに言えば加勢に来た神楽ちゃんの姿を見た沖田が、ホッとしたように体の力を抜く、というシーンがあったのがめちゃくちゃ解釈違いだ。

沖田はあんなに簡単に「自分戦いまくってしんどいっす!ピンチのときに味方の顔見てホッとしちゃったっす!」っていう姿をさらけ出すキャラではないと思う。



また、将軍暗殺と絡めて鴨の死を矮小化したこと。

これも、妖刀の存在を無かったことにしたのと同じく意味のない無理な改変に感じた。

なぜそこまでして将軍暗殺からめたのか。

おそらく将軍かよォォォのギャグシーンが撮りたい、窪田さんのスパイダーマンみたいな戦闘シーンが撮りたい、窪田さんと小栗さんのかっこいい戦闘シーンが撮りたい、堤真一さんの出演時間を増やしたい、というような撮りたいシーンと役者さんありきの改変だろう。


撮りたいシーンを先に構想して、シーンとシーンを無理矢理つなげるために脚本をつくったという感じ。



・もしかして空知流ギャグと福田流ギャグって相性悪くない?


→これは実写1のときからうすうす感じてはいたことだけど、2を見てはっきり思った。

空知先生のギャグと福田監督のギャグがかみ合っていない。


たとえば佐藤二朗さんやムロツヨシさんの登場シーンのような福田監督独自のギャグシーンはめちゃくちゃ笑えるし、将軍様ゲームのくだりや床屋のちょんまげ無理やり結おうとするくだりなど原作をほぼ再現した部分もすごく笑えるけれど、

ちょいちょいある空知先生の描いた会話やツッコミに福田監督が中途半端に手を加えた場面(そこのしゃくれ女と廃校寸前の〜ととっつぁんが声かけるシーンなど)がすごくぎこちない。噛み合っていない。


特にツッコミ部分は本家の志村新八に斜め45度の角度でキメ顔しながら「ただ大声で叫ぶだけがツッコミと思ってるなら笑止千万ですね」って言われそうな、あんまり面白くないものが多かった。


なんというか、「笑いの材質」が違うという感じがした。


例えるなら福田監督の笑いは、小学校にいた突然なんの脈絡もなくパンツを脱いでフリチンになりみんなを笑わせる男子のような、かなり直感的、感覚的な笑いで、

空知先生の笑いはドミノを丁寧に並べて、ひとつのドミノをちょんと押すとどんどん倒れていくように、最初の笑いがどんどん次の笑いを呼んで止まらない、というような計画的で計算された笑いという印象を受ける。


前者の笑いが劣っているという意味ではない。

ただパンツを脱ぐのでも、「え…お前なにやってんの…?」と引かれるだけで笑いを取れない子もいれば、「ちょ〜ウケる〜!」と爆笑必至の子も小学校にはいた。

パンツを脱いで笑いが取れるのも才能だと思う。


だけど高度な国語力を駆使して笑いを巻き起こすタイプの空知先生のギャグが、感覚的なギャグの得意な福田監督の手に余っているなぁとはどうしても思ってしまった。



ここまで思いつくままに所感をだらだらと述べた。

けれどもまとめると、

「シーンごとにぶつ切りして捉えれば名シーンいっぱいあった」

「ひとつの物語として捉えると地雷踏み抜きすぎの改変がいっぱいあった」

のふたことで終わってしまうかも。


しかし、実写2、お金かかってるなあ…。

前作の興行収入38.4億は、これだけ豪華な役者さんたちと、ド派手な演出ができるだけの成功だったんだなあ…。

原作者の空知先生の懐にもっと流れてほしいなあ、そんな思いを抱き、来週のジャンプもちゃんとアンケート出すぞって気合いが入りました。